昭和五十五年二月十二日
御理解第二節
「先の世までも持って行かれ子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る。みてると云う事が無い」
天地自然の働きを受けて受けて受け抜かせて頂くと云う生き方が合楽理念にいろんな角度から説かれます。成行きを大切にすると云うことも尊ばせて頂くと云う事も一切の事柄に御の字を付けてと云うこともそうなんです。ね、そういう云うならば生き方そういう信心が出来れば誰でも御神徳が受けられるのです。ね、だからまあ合楽理念のまぁキャッチフレーズに言われる様にね「簡単です、明瞭です」と云う風なね、だからそのほんとにそれだけのことですから簡単です。けどもそれをいよいよ明瞭にしてはぁこれでお徳を受けているんだな、これで力を受けて呉れよと云う神の願いだなと云う風に実感を持って頂ける様になるまでが信心の稽古なんです。ね、そういう信心をすれば誰でも御神徳が受けられる。
御神徳と云うのは神様の御信用とこう、ね、為には先ず神様をこちらが信心て疑わない。ね、その神様の働きを信じて疑わないところまでが信心の稽古なんです。ね、神様を信じとりますと云うても信じられてないならまだほんとに信じているとは云われない。ね、神様を信ずるかさからこそ例えば降っても照っても有難いで受けて行く。いやたまには嵐も又有るような事がある。それでもやはり御神願としてそれを受けて行く。ね、そこにあのお徳の頂けれる道がはっきり付いて来るんです。そして自分にもはぁこれがお徳と云うもんだなと、例えばどういう難儀な中にでもそれを感じることが出来る様になって来るのです。簡単ですね。問題は簡単でないのは神様を信ずると云うこと。ね、いわば天地自然の働きそのものを神愛と分かると云うことが難しいんです。これはあらゆる角度からあらゆる体験をさして貰って初めてそれが合点が行くことです。それを世の多くの人は難儀なことだ困った事だと云う風に申します。ね、信心が手篤うなれば手篤うなる程そこのところを合掌して受けて行くと云うこと。あれ程熱心に信心されるのにあれ程合楽に傾倒しておかげを頂いて居るのに右と願っても左、左と願っても右と云う様な人達が幾らもございます。私今日そのことを一生懸命あのお願いをさして頂いて居ったら「その願いが急である、その願いが切である、だからその願いを聞いてやろうと思うてね右と願えば左、左と願えば右ぞ」と頂きました。ね、だから私共が願ってしかも切実に願ってね、例えばよく御造営がこうやって着々進められて居りますからもうほんとにおかげを頂きたい、財の面でもおかげ頂きたいと云う願いを切に持って居るけれども手駒の方が舞わない。借ってからまではと云う様なだからどうでもおかげ頂かせて下さいと云う願いは切なんです。ね、けれどもね、そのいかにもその願いが神様が喜んで下さることであってもね、それに依って力を受けなければ、ね。だから神様は先ず力を受けて呉れよ、もう力を受けたらまぁそれこそアッと云う間のおかげなんです。これは皆さんが色々体験されたわけです。ね、力が出来た徳を受けたと云うことになったら、んなら合楽の場合でもそうです。私が力をま少し受けた、少しはま徳を受けたと云うその徳が力が椛目から合楽にかけての御比礼の基はそれなんです。ね、まぁ云うならばほんとにあれよあれよと云う間におかげを頂いて行くんです。そういうおかげを神様は受けて呉れよと云うことはおかげを受けて呉れよじゃなくて、どうぞそういうおかげの受けられる信心の徳を受けて呉れよ力を受けて呉れよと云うことなんですからね、そこが分からせて貰うと神様有難うございます、右と願っても左に答が出てきてもね、そこんところにお礼の言えれる信心が出来て来るわけです。
昨日ビリグイから手紙が参りました。まぁほんとに楽でもない中から度々ちゃっとこうお初穂をして参ります。日本のお金があちらでは通用しますから皆さんも手紙を出しなさる時にはね、やっぱ日本の國のでいいから入れて送って下さいよ。もう大変に値打のあるお金ですこっちからの送るお金は。だから向こうから日本円を送って来ると云うことは馬鹿らしいけんもう送んなさんなと云うごたる感じです。それでもやっぱり送って参ります。ね、ビリグイなんかはもう徳を受ける手立てと云う様なものは合楽に居る時にちゃあんとそのまぁ身につけて行って居る。まあ昨日色々おかげを頂いて居る様ですが昨日はマットグロスト教会の先生がもうとにかく八日間もかかるんだそうですからねあすこまで出て来るまでに。出て見えてのそのお話がお届けがいっぱいでした。もうあちらでは奇跡の連続です。おかげを頂いて居る。あちらの御主人と云うのは日本人ですけれども日本語が分からんのです。あちらで生まれの人ですから。だから奥さんが日本語を日本人日本語で御理解をされる。そすと御主人があちらの人達のお取次をさして貰う。この頃からまぁ狭いお広前ですけれどもでけとりましたけどもそこがいっぱいで狭くなった。そしたら今度そこが市政が敷かれて初めて水道電気、まだ今迄水道電気がなかったんです。それにテレビも見れるようになると云うこと。そしてその市からですねあのうその教会のそりゃまあ大変な広い敷地を只であげると云われておるそうです。まぁ面白い所ですねブラジルと云う所は。そんなとこなんですよ、ね、ところがほんとうの教会と云うその認めがなからなければ出来ないわけ。そして向こうに敷地を貰ったら向こうにお広前を建立しようと云う働きがマットグロスの教会の上に起こっておる訳です。それで合楽教会からだけでもよいから合楽教会のまぁ出社と云う証めになるようなものを送って呉れと云うわけなんです。とてもそげなことしよるとまた御本部からどう云われるか分からんけんまこれだけ人が助かりよるんだから本部に行ってその手続きをとらせて頂こうと思うて居りますけれどもね、しかしこちらから送りました教衣を付けてお祭りを仕えて居られる写真が一緒に送ってございました。中にはこう紙に幾重にも包んだこれは何だろうかと思うとったらこんな曲がった釘でしたこれ位ばっかりの。これがあのう一歳の赤ちゃんがそれを呑込んでもうそりゃあ何日掛かりで病院にも行かにゃならんところです。で、行ったけれども一軒は出来ないと云う、一軒は手術すれば出来るかも知れんけれども沢山な金がかかると云うのでそれこそ貧乏人は死ぬのを待つより他はないと云うて悲しんで帰って来た。ところでいわゆるマットグロス教会の話を聞いてお願いに来た。おかげで明くる日出てきた。それがもうこれがもう何処へ刺さってもその例がそのちょっと前にやっぱりそれで亡くなったと云う事があるそうです。ところがおかげを頂いてそれが出てきたと云うその釘を送って来とるです。ね、こういうま奇跡的なおかげを頂いて居りますと。こういう例えば凄じい働きと云うものがね、何処からどうして起こって来るかと、これは神様の願いが云うならば海外布教と南米布教に神様の働きがそこに焦点が置かれて神様の方が焦点を置いて居られる。ね、だからそういう云うならばあれよあれよと云った様なおかげの元と云うのは合楽に有るんです。ね、
昨日も堀内さんと云うまだ小学校二年か三年ですけども可愛らしい子供です。神様から色々とお知らせを頂くんです。それけどその毎月月の十六日には御本部参拝をするようにと云うて頂きましたから親子の者で本部参拝をさして貰うと云うお届けに来ました。別に徳を受けるものは何にも無いのにそういう働きが起こって来ると。けれどもそれはまあ神様から頂く事をいちいち自慢にしよるとやり損なうよと、通訳がいるよと。あんたんとこの御本部は何処じゃろかと、十六日と云う大体聞いただけでピンとこなきゃいけんばってんなあと云うて話しました。御本部は何処までもおかげを頂いてお礼参拝をする所。信心のもうほんとに力を受け徳を受けると云う所はやはり教えを頂いてその教えを実験実証しなければ力にはならないよと云うてまあ分かったか分からんか知らんけどもそういう風に申しました。ね、これなんかでも結局合楽に関わりのある働きの中に佐賀の支部長の娘さんなんかもやっぱそうです。日吉さんと云いますがね、もうとにかく一日お参りをして来る人のお伺いが出来る。ね、別に信心しよった訳でもないんだけれども結局神様が止むに止まれないいよいよ合楽理念を日本国中に世界中に広めようと云う思いが切ですからそういう様な働きが起こって来るんです。ね、だから皆さんの場合にはそういう云うならばお徳を受ける云うなら正しい生き方を以っていわゆる今日の御理解信心をすれば誰でもお徳が受けられると云う徳を受けなければいけんのです。その徳を受ける機会とかチャンスと云うものは何時もではない。願って思い以上のおかげを頂いて行くと云うことも有難い。けども願ってそれが反対になる様な時、それこそ天地自然の働きの中には雨もありゃ風もあるけれども又は嵐と云う様なこともあるけれどもそれを有難く頂けれる手立てを覚えるのが皆さん今の皆さんの信心だとそれが分かった時に一切が有難いと云うことになる。一切が有難いと云うその心がもうそのままお徳なのです。ね、そのお徳に伴うてくるところのおかげでなからなければ心許ない。ほんとのものではない。あれ程熱心に信心が出来られるのにと云うのに云うならばお徳がおかげが受けられんと云うのは今こそ神様の願いがほんとに切であるからこそね、その願いとするところがそれこそ合楽建設に御用にでもお役に立ちたいと云う願いを持って居る。だからすぐにおかげ頂きそうであるけれどもその合楽建設の願いその事に依って徳も受けさせよう力も受けようと云う働きが先ず云うならば徳を下さる先に下さろうとする働きが云うならあっておる。特にそれが目立ってあって居る人達今日私そうい人達の上の事を願わせて頂いて居ったらそういう風な事を頂いた。ね、神徳は信心すれば誰でも受けられると。ね、簡単ですそれは天地自然の働きの一切を合掌して受けて行くと云う生き方、そういう信心をさして頂いたら誰でもお徳が受けられると云う事なんですからね、それをいよいよ実験し実証さして貰うて成程あの時に力を受けたんだな徳を受けたんだなと自分でも思える様な信心をまそういう信心に取り組まなきゃならんと云うことですよね。どうぞ。